FAQNews 771〜775



775. マックィーンの伝記映画を巡って新たな動きがあります。 まず監督にジェームス・グレイさんがなりそうで、主役もジェレミー・レナー(FAQ&News567)以外にチャニング・テイタムやライアン・ゴズリングらの豪華なキャストが加わる可能性もある方向でプロジェクトが進んでいるようです。 マックィーンの伝記映画を作るとなると、もっと制作費を上げて、Aクラスの俳優人を起用して、お客さんを呼べる体制にするように大きく動き出しているようです。
【Steve McQueen Biopic Gets Financing As A-List Talent Circles】

追記:【故スティーヴ・マックィーンさんの伝記映画が製作へ】


774. 一代にして世界的大企業ホンダを創りあげた、戦後日本を代表する経営者・本田宗一郎氏。1982年に行われた講演会で同氏は「日本人にはユーモアが無い」と一喝。世界に通じるユーモアとは何か? 自らの経験を振り返りながら語りかけました。
[日本人にはユーモアがない]
日本人には、いわゆるユーモアがないんです。落語家には叱られるかもしれんけんど、落語は世界に通じないんです。ユーモアとは言いません。中には通じるものもあります。 が、だいたい日本の落語ってのはチョップスティック、あのお箸とブリッジの橋とをかけて話を落とすとかいうことが多い。これは外国人は全然わからないです。箸と橋です。 こういうふうなことで、我々はもう少しユーモアというものを…ユーモアというのはひとつの、相手と付き合うときの余裕であり、相手を惹きつける言葉であるわけです。 私は実はミシガン工科大学で、工学博士(の博士号)をくれるから来いというわけで、ミシガンの飛行場に降りた。大学のスミスって学長が迎えに来ておりまして、そして学校に行く。 その途中にハリネズミが5、6頭出た。学長に「あのハリネズミはおいしいですか?」って言ったら「うーん、そうだね。あんまりおいしいとは言えないけれど、まあまあっていうとこだな。 だけどありゃあアフターサービスが良いからね」ってこう言うんです。「アフターサービスって何ですか」「爪楊枝付きだ」って。 こういうことをちょっと言われてごらんなさい。本当にね、10年もお付き合いしている人のようにパッと感じるんですね。それが日本人にないんですね。 これは私たち、これからの若い人たちにぜひ身につけてもらわなきゃならんと思うんです。 皆さんご承知の、こないだ亡くなったスティーブ・マックイーン。オートバイとか自動車、馬にパッと乗ってものすごい演技をやり、若い人の憧れの的であった。 そのスティーブ・マックイーンを、ウチで顔写真を使ってもいいというわけで両方とも判を押して、そしてお祝いをやろうってんで一杯飲んで。するとそこでアメリカのテレビがちょうど映ってる。 インディアン問題で非常に大きな論議を呼んでた頃でございます。マックイーンに「インディアン問題じゃ困るなあ、アメリカは」って言ったら、「なあに、あんなのは政府がやるからいけないんだ」…今日の行革のような話。 「どうしてやりゃいいんだ」「あれはな、ジョン・ウェインにやらせりゃわけねえんだ」…ジョン・ウェインはうまくやってるもんね、映画で。そういう返事がパッと来るんですね。 本当に、付き合っててほのぼのとした、身近な人に感じてくるわけなんですね。(〜1982年の講演より〜)
【「落語よりアメリカンジョークを」 本田宗一郎が日本人に求めたユーモアセンス改革】
A. 「インディアン問題は政府がやるからダメで、ジョン・ウェインならばわけがない」・・本田氏とマックイーンの会話が目に浮かぶような面白い話ですね。


773. ポール・マッカートニーの元妻でカメラマンでもあり料理研究家として活躍し、1998年に乳がんのため56歳で亡くなったリンダ・マッカートニーが 生前撮りためていたローリング・ストーンズやビートルズの希少な写真と共にマックィーンの写真も彼女が撮っていたそうで、今回それが写真集となって4月に発売されることになりました。 アリー・マッグローとの「パピヨン」での撮影時に撮ったものがどれだけあるのかはわかりませんが、リンダの死後17年が経って一冊の写真集となって発行されることは素晴らしいことだと思います。
【Intimate new photos by Linda McCartney show a side of The Beatles...】
【Linda McCartney: Life in Photographs】


772. リプリーという最強女優キャラクターを持つシガニー・ウィーバーが、なんとスティーブ・マックィーンの大ファンであることがわかりました。 「第9地区」「エリジウム」のニール・ブロムカンプ監督の最新作「チャッピー」に出演しているシガニー・ウィーバーのインタビューにて「彼女の人生で最初に身体を震え上がらせた人との出会いは?」 との質問に「スティーブ・マックィーン」と答えています。そしてシガニーはスティーブ本人と1度出会ったエピソードを話します。 あまりのスティーブの存在の凄さに握手もできず、マックィーンから「Give me five」と手のひらを差し出されたのにその意味もわからないほど気が動転して立ちすくんでいたそうです。 その時彼女は17歳だったということですから1966年か67年に起こったエピソードのようです。 おそらくどこかのパーティーでの出来事ではないでしょうか。 マックィーンとの思い出を語っているシガニーは、映画では一度も見たことがないほど女の子らしい表情をしています。 思わず彼女のファンになってしまいました。 女優デビューが1977年の「アニー・ホール」ですから、マックィーンとの出会いが彼女の女優活動をするひとつのきっかけになっているかもしれませんね。
【Chappie Stars Talk He-Man, Indiana Jones, & Steve McQueen】 (1分52秒〜)

*「Give me five」・・一般には“ハイタッチ”ですが、手を上げて陽気にやる「Give me five」
もあれば、握手をするように軽く手のひらを前に出してクールにやる「Give me five」もあります。 陽気に手を上に上げて「Give me five」と言ったというよりは、たぶんシガニーのジェスチャーのように軽く手のひらを前に出してマックィーンはクールに言ったと思います。

訂正:インタビュアーさんがシガニーに質問したのは「あなたの人生で最初に恥ずかしがらせた人は誰ですか?」が正しく、 シェイムの過去形を震い上がらせたと聞き間違えてしまいました。


771. [憧れのル・マン24時間に挑戦1995年には日本人初の総合優勝] 昭和57年レースの世界に見切りをつけたはずの私は、トヨタ車のパーツ開発・販売やレース活動を行う「トムス」の館信秀さんから「うちと契約しよう」と誘われます。 あちこちのレースで活躍しているチームだったので「お願いします」と即決しました。 翌年から私はレースに参戦しながらレーシングカーの開発を進めることになります。当時はレーシングカーの設計も模索状態。最初に乗った82Cという車はボディー剛性がないし、エンジンも非力で「なんだこりゃ」という感じでしたが、83C、84Cと毎年少しずつ性能が向上していきました。 このころ私は自分の体力のなさを痛感していました。レース中われわれの心拍数は1分間に180〜190くらいに上がる。これはマラソンランナーとほぼ変わらない数値です。この状態で車や路面などについて冷静な判断ができないといけない。 「モータースポーツ」という言葉の通り、レースはスポーツなんだとようやく理解し、私はあわててトレーニングを始めたのです。 そして1985(60)年、85Cで私は中嶋悟さん、星野薫さんとともに初めて仏のル・マン24時間レースに出場します。憧れのル・マンは、スティーブ・マックイーン主演の映画「栄光のル・マン」(1971年)そのものの世界でした。 観客の熱狂、順位表示のネオンサイン、美しい女性たち…。欧米の人々は、ああいう演出が実にうまい。 ル・マンではコースの直線があまりに長いことに驚きました。車が加速し切った後もまだ直線が続く。時速は330キロを超え、車がぐうーっと猛烈な力で押さえつけられ、タイヤが破裂するんじゃないかと気が気じゃない。 しかも一般道を利用しているので、路面のわだちで車が暴れるんです。怖かった。本当に怖かった。 そんな状態で、ポルシェやほかの車にばんばん抜かれながらも、どうにか12位で完走しました。日本はそれまで何度もル・マンに挑戦していましたが、完走したのはこのときが初めて。帰国後にトヨタの豊田章一郎社長に社長室まで呼ばれ「よくやった」とほめていただきました。 当時、日本車は世界を席巻しつつありましたが、モータースポーツの世界ではまだ駆け出しだったんです。 それから86C、87Cと私はレースを戦いながら、エンジニアと共同で車を作り上げていきます。このころ私が気付いたのは、レーサーには「車の能力を引き出す能力」と「問題点を正しくエンジニアに伝える能力」の2つが必要だということです。 同じ性能の車なのにレーサーによって速さが変わってくるのは、運転技術だけでなくコメント能力の差も大きい。トムスで毎年新しい車の開発に関わったことは私にとって大きな財産となりました。 92年、ル・マンで2位を獲得。そして95年、私はマクラーレンのチームから招かれとうとう日本人初の総合優勝を果たしました。 すでに45歳で体力のピークもすぎた私が優勝できたのは激しい雨のせいでした。雨のためハードなブレーキもいらず、コーナースピードも落ちる。体力よりも技術や経験が必要なレース展開でした。 初挑戦から10年、優勝が決まった瞬間はうれしいというより「やれやれ」という感じでした。とにかくほっとしました。 平成12年10月「SUZUKA GT 300km」を最後に私は引退します。「勝たなくていいから続けてほしい」という声もありましたが、それはスポーツとしてのレースではないと思い、身を引くことを決断したのです。(構成 岡本耕治)
【プロフィル】 関谷正徳 せきや・まさのり 昭和24年11月27日 井川村(現静岡市葵区)生まれ。58年からレーシングチーム「トムス」所属のレーサーとして活躍。1995年のル・マン24時間耐久レースで日本人初の総合優勝を果たす。 平成12年に引退後はトヨタ・ドライバー育成プログラム(FTRS)校長、スーパーGTのトムスチーム監督を務める。
【元プロレーサー 関谷正徳さん(65)】
A. 当時ル・マン24時間レースはTV朝日がスタートからフィニュシュまでレースのクライマックを数回放送していました。 関屋正徳さんが日本人初の優勝を飾ったこの年のレースは、私もTV越しに拍手を送ったことを鮮烈に覚えています。
優勝から3年後の1998年TVの解説で関屋さんがル・マン初挑戦から優勝までについて語っています。
【LeMans 24h 1998 関谷 正徳のル・マン】





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