良心作「民衆の敵」が公開されない不条理!


大黒東洋士氏 〜 「ロードショー」 〜


昨年ガンで不帰の客となったスティーブ・マックイーンの旧作で、彼が 製作総指揮を兼ねて主演した「民衆の敵」(75年作品)を見たが、これは2年前にヘラルド映画に輸入 されながら、未公開のまま今日に至っている。つまりオクラになっているわけだが、理由はまことに簡単、 興行者に商売にならんと、ソッポ向かれたからである。ヘラルド映画宣伝部の話では、本国のアメリカで も正式にはまだ公開されていないという、いわくつきの作品である。
確かにこれは、これまでのマックイーン映画とは全く肌合いの違った、 異色作といえる地味な社会派映画である。その上、マックイーンは、 ちょっと見には彼と判断がつかないぐらい、顔中ヒゲもじゃのむさ苦しい扮装ときている。 カッコいいマックイーンを見てきたファンは、誰もがきっと戸惑いするに 違いない。しかしマック
イーン十八番のアクションやカッコいい男っぷりこそ見られないが、彼が 演ずるのは、これまでのどの映画のマックイーンよりも、信念に生きる正 義感の強い、男の中の男といえる小市民の役柄であり、同時に、内容的にも秀れたいい作品ときている。
これは近代劇の父といわれるノルウェイのヘンリエク・イプセンが1882年(明治15年)、
54才 の時に書いた5幕ものの同名の戯曲の映画化である。イプセンといえば「人形の家」が余りにも有名で、 これは周知のように何回となく映画になっている。このほかのイプセンものでは、古くは「ペール・ギュント」 「幽霊」「野鴨」「ヘッダ・ガブラー」が米独伊などで映画化されているが、「民衆の敵」はどうだったか、 僕には定かな記憶がない。
19世紀末、ノルウェイの田舎町を舞台に、今でいう公害問題を真っ向から取り上げて、公害阻止に単身で 立ち向かう勇気ある医者の、ヒューマニスチックな物語である。町の有力者たちは医者の説を封じようと圧 力をかけ、有力者の口車に乗った無知な町民の一部は医者を変人扱いして、その一家に迫害を加える。しか し医者は屈せず、敢然として有力者や町民の圧迫とエゴに立ち向かう。いうまでもなくこの医者が マックイーンの役で、その妻にビビ・アンデルセンが扮している。
マックイーン映画は大体どれもカッコいいのが身上で、それ故に人気もあったともいえる。それはそれで大 変結構なことで、僕だってそんなマックイーンが好きであった。しかしこの「民衆の敵」のように、お仕着 せ企画でなく、一般的な人気(興行価値)を顧みず、彼自身の選択で、このようなヒューマンな男の役 を熱演していること自体高く評価していいことだ。そしてマックイーン映画 の中で最も感動した作品、という私見も付け加えておこう。しかしその批評をここでのべようというのでは ない。僕がいいたいのは、このような内容のある秀れた作品が、どうして陽の目を見ずに倉庫の隅で眠って いるかということである。
配給元のヘラルド映画に聞くと、この原稿を書いている2月末現在、まだ公開のメドがたっていないという。 物語の時代が19世紀末となると、日本の公害問題の原点といえる、足尾銅山の鉱毒問題田中正造が取り上 げて世論に訴えたのも、期せずして19世紀末から20世紀にかけてのことであった。その後公害は広がる ばかりで、大きな社会問題になっているが、それだけに、これは訴求力の強い、今日的なテーマを持った作 品といってよい。そういうところにポイントをおいて売り込めないものだろうか、と考えたりする。 たとえカッコよくないマックイーンだとしても、彼が役者生命を賭けた野心 作だけに、マックイーン・ファンは無関心ではいられないはずだ。
このようにいい作品がオクラになるかと思えば、ロクでもない映画が、ロードショーというもオコがましい ような公開のされ方をしている。興行者はエロ・グロ・アクション・怪奇物などは簡単に鵜呑みにするが、 その割にお客が寄りつかず、1週間そこそこで引っ込む作品が多い。
くだらない映画はそれなりに冷遇されてもよいというのに、堂々とロードショー形式で公開され、その反面、 「民衆の敵」のような良心作は買い手がつかない。まことに不条理な話だ。たとえ マックイーンがヒゲもじゃの朴念仁医者であろうとも、彼を見たいという ファンの数は決して少なくないだろう。ましてや感動を覚える作品だけに、これを見て、 マックイーンへの追慕の念をいっそう深くする者も多いだろう。その点、 マックイーン・ファン必見の映画ということにもなり、これが公開されて こそマックイーンの霊も浮かぶというものだ。一方興行者の使命感からい っても、こういう作品は、多少の無理をしてでも公開すべきではないか。

〜 81年5月 集英社 刊 〜





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