スティーヴ・マックィーンへの50の質問


YANI BEGAKIS 〜 「スクリーン」 〜


1.スピード狂として知られるあなたは、一体車を何台お持ちですか。
三台です。一つはDKS、一つはジャガー、一つはコブラです。そのほかに、オートバイを三台もってい ますが、そのうちの一台はものすごく速いのです。

2.いつも自動車レースをして、怖くはないですか。ジェームズ・ディーンの前例もあることだし・・・
私はレースが好きだ。そして今では妻もそれを認めていてくれます。私は怖くなんかない。私には大きな エネルギーがあるのだ。そのエネルギーを燃やしつくさなくてはならないのです。私は非常に健康で若い から、刺激のあることをするのです。

3.あなたはご自分を運がいいとお思いですか。
ええ、私にはすべてが都合よくいったようです。ご存知の通り、私はずいぶん苦労してきた。人生の裏街 道を歩いた感じです。幼ないころ、私は孤児に等しかった。それからカリフォーニアの寄宿学校へ入り、 大きくなってからは、ニューヨークに出て、グリニッチ・ヴィレージに住み、ボヘミアンの生活を送りま した。しかしサンディ・マイズナー氏に逢ってからは、とんとん拍子に俳優の道を進むことができました。

4.学校生活は面白くなかったのですか。
私の気質に合わず、面白くなかったが、それでも私は学校で多くのことを学びとった。今度は私がお返し をする番です。私は休みのときは、いつも出身校を訪れて、できるだけのことを尽くしています。もっと も去年は忙しくて行かれなかったが・・・

5.あなたは成功してから、自分が変ったと思いますか。
それは変ったでしょう。金が入ったために、自分の家も出来ました。でもその金のために、かえって苦労 も多いですがね。

6.どんな映画に一番出たいですか。
いい映画、特にいい西部劇です。そういう意味で今まで出た映画で一番好きなのは「荒野の七人」です。

7.現在のお齢は? そして生れた所は?
三十三歳。生れたのはミズーリ州のスレーターという農村です。

8.少年時代に何か強い印象に残ったようなことは?
そう、ある晩、私の家のまわりに狼が何匹かやってきてうなり声を立てていたことがある。私はすぐに自 分の銃をもってとび出し、狼を射ち、追い払いましたが、その中の傷を負って倒れた狼のことが無性にい とおしくなり、すぐかけ寄って介抱しました。

9.田舎で一生を過ごす気はなかったのですか?
私は小さいときからずっと、百姓の息子以上の何ものかになりたいと考えていました。でもそれはたとえ ば銀行員のように静的なものではありません。私は常に私の周囲にあるものが、人々が、生活が激しく動 いていないといやだったのです。

10.そういうイミで田舎の学校生活は面白くなかったわけですね?
授業時間と休み時間とはっきり分けるというような規律ある生活は、私には先ず決してなじめませんでし た。それはもちろん、今でも同じですが。そういうわけで、そのころから、私には放浪を憧れる心があっ たようです。

11.実際に放浪生活を送ったのですか。
私が全く規律に従わぬような生活をしていたため、私は結局、感化院に入れられました。私はそこを脱走 し、それからは放浪の年月でした。

12.脱走から役者になるまでは、何をして生活していたのですか。
ドミニカ共和国のタンカーに乗りこみ、海を渡る生活をしていたが、やがて熱帯の汐風にも疲れてきたの で、船をおりて、今度は大工をやったり、テキサスの油田で働いたり、時には旅回りのサーカスで呼び屋 をやったりもしました。大道で万年筆を売ったこともありましたが、私にはどうも商売人の才能があるら しい。しかしそのあと、志願して海兵隊に入り、二年間、服務しました。
13.規律をきらうあなたが、そうした放浪の生活の果てに、海兵隊に入ったというのは?
私は海兵隊で軍艦の操縦をやっていた。私がその生活に耐えられたのは、モーターへの趣味が生れてから です。軍艦のモーターを動かしながら、私はいつか、ジャガーを自家用車にもちたいなどと夢みていた。

14.では今のあなたが自動車に熱中されるのも、海兵隊生活がもとなのですね?
そうです。私はモーターにとりつかれた人間になり、除隊後はすぐに、ニューヨークでタクシーの運転手 になりました。

15.では俳優になろうと思ったのは?
タクシーでテレビ局のスタジオへ行くタレントなどを多く乗せているうちに、私もあの中へ入って、自ら 演じてみたいという気持ちが起きてきたのです。

16.具体的にそれをどのように実行しましたか?
たまたま、ドラマ・コーチのマイズナー氏に逢ったことから、氏の世話で演技学校に入ることになったの です。

17.放浪生活に終止符を打ち、俳優への道を歩みはじめたわけですね?
それはそうだが、役がつくまで生活はやはり放浪のそれだった。自分で食うことを考えながら、勉強をつ づけるのだから。私は昼間学校へ通う傍ら、夜はタクシーの運転をやったり、ほんの僅かの期間だがボク シングもやった。

18.ボクシングはいつ覚えたのですか。
実は全くの自己流だ。私は腕力が強かったからね。試合をやったのはたった一度だが、それで六五ドル儲 けましたよ。

19.そういう経験は現在の俳優生活にどのように役立っていますか?
俳優としての私の基本になるものは体力だ。私はいつも自分の身体のフォームを頑健に保ってこそ、私の 持ち味は表現できるものだと信じています。だから私の余暇はすべて肉体的鍛錬に費されるのです。車を 飛ばしているときのほかは、今でもジムで激しくサンド・バッグを叩いているのです。

20.最初に俳優として演じたのは?
ハーバート・バーゴフの実験劇場の舞台で、マーガレット・オブライエンと共演したとき。

21.本格的デビューは?
テレビです。私自身、テレビというものに惹かれていたし、実験劇場に出ていたことや、さらにアクター ズ・スタジオにもパスしたことで認められ、テレビ局から少しずつ役がくるようになり、遂に「拳銃無宿」 の大成功に導かれたのです。

22.あなたは全くのテレビ時代の産物であり、テレビの生んだ最初のハリウッド・スターだとよく言われますが、ご自分ではどうお考えですか。
そりはその通りですが、そうでもないと言える。私はただ、最初から映画のあの大きな画面に出る自信が なかっただけのことです。テレビの小さな画面ならば、より直接的に、てっとり早く、私の中にあるもの を表現することができると考えたにすぎません。

23.テレビから一躍映画の大スターになった感想は?
もちろんうれしいが、一ついやなことは、スターになったからといって、私をまるでハンサム・ボーイの ように扱う奴がいることです。

24.ではどういうタイプのスターでありたいのですか。
ブルドッグのような男も多くの女に愛されることがあるのを知っていますか。それが私だ。私は放浪時代 から少しも変っていやしない。私は自分のやりたいことを好きなようにやって行く。その持ち味が自然に スクリーンに出て、私の健康といつも動いているエネルギーが観客に伝われば、それでいい。

25.どの監督が一番、スターとしてのあなたのよさをひき出してくれましたか。
ジョン・スタージェス。彼がまず「戦雲」で私を抜擢し、「荒野の七人」「大脱走」と、私に大役を与え てくれた。スタージェスの指導によれば、私はダイナマイトを船で運ぶような際どいことさえ、軽くやっ てのけられるだろう。

26.撮影にまつわる面白いエピソードを何か話して下さい。
そう、「戦雲」をロンドンで撮影していたとき、私はロンドンのサヴォイ・ホテルに泊まっていたが、イ ギリスの料理はどうも気に入らず、自分でミールを買ってきて部屋で煮ていた。ところがその火がカーテ ンに燃え移ったので、ホテルの人間が慌ててやってきて火を消し、私をホテルから追い出そうとした。だ が私は腹が減ってしまうと、どうしようもなくなるたちで、その場にヘナヘナと座って動けなかった。

27.お好きな女優は?
先ず、『ふさわしい他人との恋』で共演したナタリー・ウッド。彼女は私のキャラクターをよく受け止め てくれた。

28.その映画でどんなキャラクターをあなたは演じたのですか。
私の役は一種のボヘミアンで、つまりは金のないプレーボーイ、私自身のかつての姿をそのままにしたよ うな役だ。そういう天衣無縫の人物の恋人役として、ナタリーは実にピッタリとした愛情を演じてくれた。

29.ほかに最近の共演者は?
このところ別嬪さんにめぐまれていて、新作『雨の中の兵隊』ではチューズデー・ウェルド、今撮影中の 『旅する女』ではリー・レミックと共演している。若さに満ちた新鮮な女優さんたちで、私の方でも野性 のエネルギーが充分に発散できるというわけです。

30.奥さんがヤキモチを焼くでしょう?
そんな様子が全くないので、かえって物足りない位です。ナタリーとネール(註-マックィーン夫人ネール ・アダムズのこと)と私の三人は、撮影中によく夕食を、私の日本風の茶室でとりました。なごやかな雰 囲気だった。

31.この辺で奥さんのことを語って頂きましょうか。
ネールは全くいい女房だ。私のために、ブロードウェーのスターの座をも顧みずに尽くしてくれたのです。

32.結婚されたのは、まだ無名のころですか?
正直言って、私は目下売出し中というところでした。ネールは既にブロードウェーのスターだったので、 感化院あがりの不良なんかとは身分ちがいだと、大分周囲の反対があったけれども、我々はすぐに気が合 い、愛し合いました。

33.奥さんはもと俳優だったわけですが、家庭の主婦としての生活にも喜んで従っていますか。
主婦としても喜んでちゃんとその役割を果たしています。でも彼女が仕事をしたいと言うときには、私は とめない。干渉もしない。彼女は自分で仕事を見つけて、やっています。

34.きくところによると、奥さんは日本趣味だとか?
そう、私の家へいらっしゃい。日本風のバンガローがあり、庭があり、部屋もすべて日本式で風通しがい いのです。日本の彫刻もかざってあります。

35.どういうところから奥さんは日本趣味に?
ネールは子供のころ、マニラの捕虜収容所で日本人たちの間で二年間を過ごしたのです。だから日本語も 話せるのです。

36.あなた自身は日本についてどうお考えですか?
ネールと私は何でも気が合うと言ったでしょう。私が日本に深い関心をもっていることは、日本映画から 翻案した「荒野の七人」を今までの出演作の中で一番好きな作品だと言ったことでも分ってくれることと 思う。

37.日本語はどうです?
これもネールに教わって、三つ知っているよ。アリガトウ、オハヨウ、サヨナラ・・・

38.食べ物については?
これは残念ながら好物がちがう。ネールは何よりサージンが好きだが、私はカニのサラダが好きなのです。

39.「拳銃無宿」でスターの座に上ったのは、結婚のすぐあとですね?やはり奥さんの協力が大きかったこともあるのでしょう?
それはもちろんだが、あくまで精神的な協力だ。また、私のために、マネージャーや秘書の役までしてく れる。

40.あなたの夫婦円満の秘訣を一言・・・
50パーセントの甘さと50パーセントの毒、これが秘訣だ。

41.具体的には、どんな家庭生活を?
たとえば、家庭では日本風の庭に夫婦二人で花を植えるような甘い雰囲気があると同時に、たまには女房 をほったらかし、得体の知れない浮浪者を家へひっぱりこみ、ギターを鳴らして馬鹿騒ぎをする。

42.お子さんは何人ですか。
二人です。一人は三歳。一人は四歳。

43.よき妻、よき仕事にめぐまれたあなたの今度はパパとしての側面を話して下さい。
私に関してどんなことを言われようと、チャッドとテリーの二人の子供と遊んでいるときの私は、もうま るっきり、保守的で伝統的な家庭の父親にすぎません。子供たちこそ、私の最高の贅沢品だとさえ言いま しょうか。

44.そのよきパパぶりは、スクリーン上のあの天衣無縫の野性味とは、また異なったあなたの一面ですね?
私は貧しい親をもち、しかも幼いときに実の父親と別れたため、親の愛情に包まれた日々というものに、 いつも無限の憧れを抱きつづけていました。今自分に子供ができて、その愛情だけは充分に注いでやりた い。私が子供たちと遊びはじめると、余り甘やかしすぎるので、部屋の中も何もメチャクチャ、ネールは そのため、狂ったように怒り出しますよ。

45.今のあなたには、家庭にも仕事にも何の不満はないようですが、強いていえば何が不満でしょうか。
自動車レースが思う存分できないこと。時間の余裕がないのが原因です。だがネールもまだ内心ではそれ をやめさせようと思っているようだ。また会社も出演契約のときには、レースに出ないようという一項を 設けようとします。私は言ってやった、一本で一00万ドルもくれるのなら、やめてやってもいい、とね。

46.動物類はお好きですか。
家にドイツ産の牧羊犬を飼っています。マイクという名です。私が幼いとき、傷ついた狼に愛情をもった ことを想い出して下さい。

47.独立プロを設立した動機は?
愼重な俳優ならば、だれでも自分のプロを持つべきです。でないと、自分の収入の殆どが、仲介者に吸い 取られてしまう。十万ドルの出演料なのに、自分の手に入るのはたった一万ドルしかないという具合です。 ネールも私もそういうことに我慢できなかった。私はネールにあらゆる望みをかなえてやりたいためにも、 独立プロ設立に踏み切ったのです。

48.ご自分のプロでの作品は?
現在、四、五本の準備作があります。私は何よりいい西部劇をつくりたい。

49.では今後のスタートしてのあなたの目指す道を結論的に話して頂きましょうか。
私はたしかに田舎の不良からのし上ってスターとしての地位を築いた。だが私にはそんな意識は毛頭ない のです。私は今まで通り一介の野人にすぎない。車もとばそう。ボクシングもしよう。つい先だっても、 私がニューヨークの学生街を、ボサボサの髪で、ブルージンをはいて、ぶらぶら散歩していたとき、だれ ひとり私に気がつく人はいませんでした。これが私の地なのです。スター気どりで落着いてしまったとき、 それはもう人間スティーヴ・マックィーンの終るときです。私は規律にしばられるのがきらいだった。こ れからも、型にはまったものを叩きつぶすために、スクリーンででも実生活ででも、暴れ回ってやろう。

50.最後にあなたの格言を・・・
人生はスポーツだ。

〜 64年3月 近代映画社 刊 〜





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