スティーヴ・マックィーンとニューヨーク旧市街の青春

「マンハッタン物語」


淀川長冶氏 〜 「スクリーン」 〜


マンハッタンのふだん着

もうだいぶ以前になるが「ねずみの競走」を見てオヤこれはいいぞ、パラマンウト・タッチが久し振り でかえってきたぞと思った。そのニューヨーク生活描写のうまかった監督がロバート・マリガンだった。
その彼のこんどの映画は、河向うの青春、そういうとも呼びたいタッチたが、マンハッタンの河向うは ブルックリン、それでこれはマンハッタン旧市街の青春、または人情ばなし・・・そう呼びたい。
マンハッタンは中心のタイムズ・スクエアから、西へまっすぐ突き当るとハドスン河の河岸となり、 タイムズ・スクエアから逆に、東へまっすぐ突き当るとモダァンな国連ビルを河岸に見るイースト河と なる。
この映画、そのかつてイースト・サイドと呼んだ国連ビルの南の貧 乏長屋のイタリア移民地区が中心と なる。
ニューヨークはいうまでもなく、このマンハッタン・・・その南のイースト河対岸のブルックリン・・ ・同じくイースト河対岸のクィーンズ・・・それからマンハッタンをずっと北東に上ったブロンクス・ ・・それとハドスン下流対岸のリッチモンド・・・この五区から成り立っている。
なぜこのような地区の話を出したかというと、この映画その土地柄が実によく出ていて、見ているうち にそれが実に楽しくなってくるからである。
それもブロードウェイ三十四丁目のメイシー百貨店、国連の南の一番街四十二丁目、それからマンハッ タンの南のグリニッチ・ヴィレジと、そのロケ地がすべて旧市街の古めかしいマンハッタンで、フィフ ス・アヴェニューやロックフェラー・センターを狙った「ティファニーで朝食を」がマンハッタンの イヴニング・ドレスなら、こんどの映画はマンハッタンのしみだらけのふだん着みたい。

都会の片隅の青春

この映画の試写室から日本版ナイスガイ・ニューヨークの格好をした若い男の子が出て来て「よかった 、ぼく泣いちゃった」と私に囁いた。威張ってもハイカラぶっても、こんな青春の胃ぶくろを締めつけ るこの映画。そしてこの映画のスティーヴ・マックィーン扮するロッ キーがそのままの感じで新しく装えども古き江戸っ子の坊や、なのであった。
泣いたのは、おそらくアンジー(ナタリー・ウッド)がロッキーと連れだって、もぐり医者の手で胎児 を始末しようとするところ。ここで、たまりかねたロッキーが、止めろ、と叫んで下着一枚の彼女を抱 きしめ二人で崩れるように床に泣き伏すところだったのではないかと思う。
けれども、泣いたのはそこだけではなく、ロッキーの両親の人の良さ、アンジーの兄弟と母親の古めか しい生まじめとその人の良さ、みんな人のいい連中ばっかりで、そのうえロッキーの女になっているス トリッパーのバービー(イーディー・アダムズ)までが底抜けに気のいい女で・・・それにアンジーと 結婚したがっている料理人のコロンボ(トム・ボースリイ)これが最高のお人好しで、その善人たちに とりまかれた、この不始末を起こした主人公二人・・・実に一番良くないのがこの二人・・・そんなア ンジーとロッキーなのに、この二人の気持ちが、実によくわかって、哀れで、この映画を見て泣けると いうのは、本当になけてしまうのだろうと言うことが、よくわかるのである。
つまみ食いの名人ほどではないが結婚ぎらいで、ちょっと女の子を片づけるくらいは平気の、そんな失 業中の楽士のロッキーが全米楽士組合の職業あっせん場の大きなホールの中で、いっぱいの失業者の群 にもまれて、仕事を貰うために相当のハッタリをブローカーに示しているところへ呼び出しがかかって、 これが景気づけに自分がひそかに人に頼んだサクラの呼び出しではなくて本当の呼び出しで、へーッと 喜こぼうと思ったら、妙な女の子が向うからやってきて顔を見るなり「あんたの赤ん坊が生れる」と口 走った。そのときのロッキーの狐につままれたごとき顔。第一こんな女どこで知ったのかというその顔 に・・・女はカッとのぼせてそこを飛び出す、それを男が追う・・・ここからこの映画、マンハッタン のロケイションをあざやかに匂わせてくる。
アンジーが無茶苦茶の勝ち気で、男が結婚するより仕方がない・・・というような結婚には我慢でき ぬその勝ち気がやがて次第に解ってくる。彼女イタリア移民の血をひいて多血で自我強く、そして、 むさくるしいイタリア移民の貧乏臭さから一日も早く脱皮して好青年の堂々たる求婚による結婚をし たがっていることの次第も解ってくる。
そんな彼女が顔も覚えてくれぬ男の子供を生む?この事件、これは思いきった彼女のとんでもない一 夜の性の冒険で、それの理由も解ってくる。というのはこのアンジー、年ごろになってイタリア女の 母が昔気質で娘のことが心配で、それでメイシー百貨店勤めの、その娘の帰りを必ず兄に迎えにやる。 その兄がこれまた大変な妹想いで、自分の店のぼろトラックを百貨店入口にでんと構えて妹の出てく るのを待つ。それがアンジーにはこの兄や母がヒステリックになるくらいカンにさわって、そんな毎 日の中から、ろくに知りもしない一人の男と性の冒険をあえてやってみた親兄弟へのとんでもない反 抗ということで・・・これがあの娘ならやりかねぬと理解できなくもない・・・というように映画は 作られている。アーノルド・シュールマンの脚本のうまさである。

マックィーンの表情

堕胎の金を二人で作って医者の車を待つ人影皆無の、マンハッタン下層階級地区のバワリィあたりの 風景がすごい。けっきょく足もと見られ四百ドルのほかもう五十ドルとすごまれて、二人は困って、 ロッキーは何年ぶりかで我が家のイースト・サイドの両親を訪ねアンジーを紹介する。
ひるめし時で両親は公園のような空地でたくさんの人とわいわい話し合っている。そこでのロッキー 親子の対面が下町人情をあふらせて、とくにこの両親を演じた俳優がうまくて、その父親の人のいい 貧乏やつれのから元気のお父っぁん風情、その父が、そっと息子を呼んでおっかァに内緒とあわてて 小使いを握らせると、母親のほうはひるめしのバスケットをひろげ、さあ久しぶり一緒にあおがりと、 これまた急いでお父っぁんには内緒、と小使いをロッキーに握らせる。さきほど泣いた・・・と言う のはここか。
妙な黒人少年がアンジーの兄のスパイとなってこれを嗅ぎつけ、兄弟がトラックでここに駆けつけて、 アンジーとロッキーが逃げ廻る(このマンハッタン旧市街がいい!)。それでもう仕事のないままに 閉めているようなロッキーの親父の仕事場、そこへ二人は逃げこんで、ここで・・・この映画ゆっく りとスピードを落し、二人が本物の恋人同志になってゆく、その演出がやわらかくて美しい。
スティーヴ・マックィーン・ファンは、この彼を見ないではファンと はいえる資格はない。目の表情、唇の表情、両手両足の表情、ベッドに寝ころんだときシャツの間か ら見えるヘソまでが表情をする。演出は彼の個性を掴んでまさに見事である。ナタリー・ウッドは 「ジプシー」の大失敗を見事とり戻し、彼女最良の代表作となっている。
七〇ミリでなくとも、シネラマでなくとも、色彩でなくとも、この映画は久しぶりでアメリカ映画が、 古めかしい大都会の中の現代の青春を当り前の黒白作品でこんなにも見事にみせた。このスタッフの 映画良心に私は拍車を贈りたい。「アラバマ物語」のマリガン監督も立派ながら実は私はこんどのマ リガンのほうがもっと好きだ。

〜 64年6月 近代映画社 刊 〜





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