FAQNews 1086〜1090



1090. 中尾ミエさんがマックイーンのファンということは知られていますが、マックイーンに手紙でアプローチしていたことをテレビで告白しました。 『歌手の中尾ミエ(72)が14日放送のフジテレビ系「なりゆき街道旅」に出演し、ハリウッドの伝説的なアクションスター、故スティーブ・マックィーンに写真を添えた手紙でアプローチした過去を打ち明けた。 中尾はいつも持ち歩いているという、17歳当時の写真を紹介。ザ・ピーナッツと共演した東宝の映画「若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん」(1963年)で舞妓(まいこ)にふんした写真で、共演したハライチの澤部佑、ロッチのコカドケンタロウも、「激カワイイよ!」(コカド)「激マブですね」(澤部)と、事務所の後輩という立場を超えて絶賛した。 「(写真が)あんまりかわいいもんだから」と、中尾は「ファンだった」というマックィーンに写真を使ってアプローチすることを思いつく。「スティーブ・マックィーンのファンだったのね。スティーブ・マックィーンにファンレター書いて、この写真入れて。そうさねえ…かれこれ50年ほど前」と、手紙作戦を敢行。「返事は来なかった」と、作戦は失敗に終わった』
マックィーンはドラマ「拳銃無宿」でブレーク。「荒野の七人」、「大脱走」、「シンシナティ・キッド」、「ブリット」、「ゲッタウェイ」、「パピヨン」、「タワーリング・インフェルノ」など多くの名作、ヒット作に主演して世界中で絶大な人気を誇ったが、がんのため1980年に50歳の若さで死去している
【中尾ミエ スティーブ・マックィーンに手紙でアプローチしていたことを告白】


1089. ニューズウィークは映画評論サイト「Rotten Tomatoes」、評価・レビュー集積サイト「Metacritic」、「IMDb」のデータをもとに、マックイーンの誕生日に作品ベスト15を選出しました。
【STEVE MCQUEEN'S BIRTHDAY:HIS 15 BEST MOVIES RANKED】


1088. チャドはマックイーンの名を冠したショールカラーのカーディガン($1,690〜$2,390)を販売していたファッションブランドTOM FORDを商標権侵害で提訴しました。 記事では提訴後名前を「Classic Cardigan」に変えたとなっていますが、現時点では「MCQUEEN CARDIGAN」のままになっています。 また、チャドは全てのMcQUEENの商標、肖像、名前のマーケティングでの使用差止請求を行うことを目指しているとも報じられています。
【Steve McQueen's Son Sues Tom Ford...$2,400 Cardigan Trademark Infringement】
【TOM FORD MEN / READY TO WEAR / KNITWEAR】


1087. デレック・ベルに、スターリング・モスやスティーブ・マックイーンとの友情、ワークス・ポルシェを駆った日々について語ってもらった。 デレック・ベルは本当に好人物だ。私が初めてベルに会ったのは1970年代中頃のニュルブルクリンク1000qレースの時だった。私は単なるレースファンで、ニコンやライカを首からぶら下げ偽の書類をちらつかせてピットレーンにもぐり込んでいた。 当時というか今もそうだが、デレックは私のヒーローだった。同じイギリス人だと気づいて話しかけてくれたときは本当に嬉しかった。レースはすでに始まっており、レーシングスーツを腰まで下げて出番を待っていたベルはよく日に焼けていた。 実は見た目ほどリラックスしていたわけではないのかもしれない。だが、曲がりくねって危険なニュルブルクリンクの旧コースでレースするのも休日のドライブとたいして変わらないといった佇まいだった。 あれから30数年、私はデレック・ベルMBEと再び話をする機会を得た。ベルは今もよく日に焼け、相変わらずスピードを売りにした車の仕事をしている。だが、今回顔を合わせたのは以前より落ち着いた場所、デレックがフロリダ州ネープルズで共同経営している高級車ディーラーの一室だ。 70代とは思えない引き締まった体つきはキャリアのピークと変わらない。確かにおなじみの笑い皺は深くなったが、フロリダの太陽とオレンジジュースが若さの秘訣なのだろう。 デレックのレースキャリアは大半がアメリカでのものだ。ある資料によれば350余にのぼる出走数のうち157がアメリカでのレースだという。それはベルの絶頂期ではなく、本人いわく「商売で生き残るのに苦労」していた時期だった。 また、断固「生き残った」あとキャリアの終盤に再びIMSAやIROCに参加し、テレビ放送されていたスピードビジョンGTシリーズにはアウディS4クワトロで3年間にわたって出走した。 「10代の頃はよく両親にいわれたよ。『何年か国を出てみるべきだ。陸路でオーストラリアまでいってイーディスおばさんを訪ねたりしたらどうだ』ってね。こう返事したのを覚えている。『いつかね。でも、レーシングドライバーとして行く』 すると『そんな自信がどこから出てくるんだ。運転すらできないくせに』といわれたよ。でも、いつかそうなると分かっていたんだ。自動車レースが好きでたまらなかった。世界中で戦いたいと思っていたから」そうデレックは回想する。 デレックのアメリカでの初レースは1968年ニューヨーク州北部の美しい丘陵地帯に位置するワトキンズ・グレンが舞台だった。ベルが今でも鮮やかに覚えているのは、泊まったモーテルの強烈な杉の香りであったという。 ワトキンズ・グレンのレースで27歳の誕生日を数週間後に控えたベルはフェラーリに乗って2度目のF1のグリッドに並んでいた。カナダGPで脚を負傷したジャッキー・イクスの代役であった。ロータス・セブンでわずか4年前にレースを始めたばかりのベルにとって、大きなステップアップであった。 「ワトキンズ・グレンの雰囲気は素晴らしかった」とデレックは振り返る。数年前にはこのサーキットでグランドマーシャルも務めた。 「アメリカでの初レースにしてどえらい経験だった。素敵なコースでね。朝、ジャッキー・オリバーと歩いて回ったのを覚えている。そこでレースした経験がなかったのは、たぶんグリッド上で私たちだけだったと思う。まさか自分が旧コースのラップレコード保持者になるとは思いもしなかった。 もちろんF1でじゃない。ポルシェ917でだ」 「みんなグレン・モーター・コートに泊まった。湖を見下ろす場所に今もあるよ。経営していたイタリア人家族には娘が2人いて、黒髪の美人だったからみんながベッドを共にしたがったものさ。全員がそこに泊まってね、素晴らしい雰囲気だった」 「決勝日の朝にはドアがガタついたオンボロの軍のヘリが迎えにきて、全員をコースまで運んだ。空から見下ろしてその理由が分かったよ。道は1本しかなかったが、ニューヨーク州の全員がそこに集まっていたかのような壮大なお祭りだったのさ。 あの頃グランプリにしろ、セブリング12時間やデイトナにしろ、大きなレースはル・マンと同じだった。ファンはキャンプして、木を切り倒すは公衆トイレに火を付けたり、たいへんさ。あそこには有名な沼地があって泥水がたまっているんだが、ある年にはファンが市営バスをそこに乗り入れて沈めてしまった。 夕方、帰る頃になるとそういう沼はみんな泥だらけの人間で埋まってしまって、警察がフックで引っ張り出そうとしていた。信じられない話だろう」 この1968年のレースでデレックのフェラーリはリタイアに終わったが、その2年後にこのサーキットでチーム・サーティースのTS7での6位に入り、自身唯一のF1選手権ポイントを獲得した。 その時は当時結んでいた契約でエンジンはベルが自腹で提供していたものだった。 1971年にベルは再びワトキンズ・グレンに戻ったが、今度は名高いポルシェ917を駆って3位フィニッシュを果たした。この年のシーズンはベルのキャリアの重点がシングルシーターからスポーツカーに移り始めた年だった。 マーチ712MでのF2のレースはほとんどが腹立たしいリタイアに終わっていた。一方、ジョン・ワイヤーのガルフ917では10戦して表彰台を7回獲得。シーズン初戦と最終戦、ジョー・シフェールと初めて組んだブエノスアイレス1000qとジィス・ヴァン・レネップと組んだモンレリーでのパリ1000qでは優勝も飾った。 スポーツカーでの成功にも関わらず、デレックの目は依然としてF1に向けられていたが、開発が進まず信頼性が伴わないマシンに夢の叶わない苛立ちは募る一方だった。最後のF1レースとなったのは1974年ニュルブルクリンクでサーティースTS16を駆って、彼が愛した舞台でのレースは11位に終わった。 サーティースではこれ以外に5回出走して予選落ち4回、リタイア1回だった。その後ベルは完全にスポーツカーとツーリングカーに戦いの舞台を移した(例外として1977年に型落ちのペンスキーPC3でF1ノンチャンピオンシップ戦に一度登場している)。 1975年はジャッキー・イクスと組み、ミラージュGR8でル・マン優勝を果たしたほか、アンリ・ペスカロロとのペアで美しいアルファT33TT12を駆りワトキンズ・グレンとオーストリアで優勝した。 デレックのスポーツカーキャリアは上向く一方に見えたが、次に誘われたブリティッシュ・レイランドのジャガーXJ12Cには苦しめられる。 このジャガーは非常に速かったがそれはうまく走ればの話だった。リタイアすることが多くタイヤが外れて転がることまであったのだ。1977年はジャガーで9レースしたが、ベルの車が完走したのはわずかに1回だけ。アンディー・ラウスと組んで戦ったニュルブルクリンクのレースで見事な2位フィニッシュだった。 1970年代末にはデレックはすっかり幻滅し、資金も底を尽き引退を考えていたという。 「スポーツカーレースは完全に泥沼状態だった。私たちドライバーにとって問題は、ルノーやポルシェといったビッグチームが、ル・マンのような大きなレースのときだけトップドライバーを使いたがったことだった。だが、それより小さいチームとフルシーズンの契約を交わせば、ル・マンでも出場を求められるから、自分の首を絞めるようなものだった。 だがたった1レースの報酬だけで1年間食いつなぐのは無理だ」 デレックは苦労しながらも続け、レースに出るためならあらゆる車で走った。「とにかく出場する機会を追い求めたよ。機会があればどこへでも金を持ち込んだ。でも結局、引退して実家の農場に戻ることにした。1970年代初めはF1カーで予選落ちしてもスポーツカーレースのおかげでやる気を保つことができた。 だが70年代の後半にはトップクラスの車で走るチャンスはすっかりなくなりそうだった」 「世界選手権はポイントによって賞金が出たが、私はノーポイントだった。カナダにチェット・ヴィンセンツという本当に素晴らしい人がいてね、934ポルシェを走らせていた。チェットは934でいつだってトップ10に入っていた。問題があってもいつも完走していたんだ。そして賞金は10位まで支払われた」 「それで彼に電話して頼んだ。『なあチェット、困ってるんだ。俺のキャリアは終わりだ。だが最後の花道にモスポートであんたの車で走らせてくれないか』とね。すると『報酬を払う余裕はないが、旅費と宿泊費は出そう』と言ってくれた。だからチケットを買うとすぐにトロントへ飛んだんだ。なのに、あの車ときたらそれまでは毎レース完走していたくせに、あの時だけミスファイアでプスプスいって結局17位辺りで終わったよ」 「モスポートにいる間にジャンピエロ・モレッティと話す機会があった。『来週エルクハートレイクでうちの車に乗らないか。報酬は払えないが、ホテル代はうちがもつ』と言うんだ。それで、そっちへ向かった。方法は覚えていない。トラックの荷台にでも乗せてもらったんだろう。グリッドにつくと、隣はアルヴィン・スプリンガーの出来のいいアンディアル935ポルシェだった。 そこでアルヴィンが『なあ、来週のミッドオハイオはうちで走らないか。賞金は6万ドルだぜ』と言うから『乗った』と答えた。アルヴィンは続けて『歩合でやってくれるよな』と。『だめだ。こっちに来て3週間になる。もう一文なしだ。前払いで数千は必要だ』と返事した」 「それはともかく、エルクハートのレースではエンジンがウォームアップでブローしてスペアで走るはめになったんだが、スペアのほうも燃料のピックアップにトラブルが出た。結局10位かそこらだったから『たいした金にもならないな』と思ったよ」 「それからミッドオハイオのランバーマンズ500に行った。グリッドは4列目辺りで前には速いのがいっぱいいた。Can-Amマシンやすごく速い2リッターの小型スポーツカーなんかだ。ブランズハッチに似たコースだった。走らせる935はのっそりしていてパワーはあり余っていたがそれを生かせていなかった。 グリッドについていたとき、本当にスタート直前だったんだが、まだアルヴィンは『デレック、歩合でやるよな』と言っていて、こっちも『だめだ。即金だ』と譲らなかった」 「もちろん、そのレースで勝ってやったさ。分かっていたら6万ドルの10%で手を打っていたんだがなあ。だから結局は一文なしで帰路についたよ。でも、誰だって自分の最後のレースは忘れられない。それがいいレースだったんだ」 不思議なことにキャリア初期にポルシェで実績を残していたにもかかわらず、デレックが公式にワークスチームのドライバーとしてエントリーしたのは1980年ル・マン24時間レースだった。924カレラGTRトリオの1台でベル/アル・ホルバート組は日曜の朝に5番手まで上がっていたが、バルブ焼けによって13位に終わった。 デレックは今もこの車のロードバージョンを所有している。50台のうちの1台でレース後にファクトリーから贈られたものだ。 1981年も請われて今度はジャッキー・イクスと組み、もう少し力のある車を任された。ジュールがスポンサーについたその936が勝利を遂げた瞬間こそ、キャリアのターニングポイントだったとベルは振り返る。このペアは続く1982年もロスマンズ956でル・マン優勝を果たした。 そこからデレックのキャリアが後戻りすることはなかった。1980年代はポルシェのワークスドライバーとして、935や956といった秀作車やほとんど負けなしだった962などを駆って、とてつもない数の成功を積み重ねていった。 最終的にポルシェワークスで挙げた勝利数は30以上に上り、ル・マンで5勝、デイトナ24時間で3勝、世界スポーツカー選手権では1985年、1986年と2連覇を果たした。ロスマンズ・ポルシェは1988年にそのプログラムを終えたが、同じ年にポルシェから引退したヘルムート・ボット教授から、こう言われたことをベルは覚えている。 「デレック、君はほかのどのドライバーより多くの優勝をポルシェ・ファクトリーにもたらしてくれた」 ベルのレースキャリアは1990年代も続いたが活躍の場はほとんどがアメリカだった。「前ほど必死ではなかったよ。なんでも運転したのはレースを続けたかったからだ。こっちなら年を取っても不利になることはない。スポンサーはちょっと個性的な年寄りのほうを好むくらいだ」 1990年代後半、デレックはその人柄と話術でF1コメンテーターとなり、ESPNスポーツチャンネルやFoxといったアメリカのテレビ局で仕事をした。これがきっかけとなり、スピードビジョン・ワールドチャレンジGT選手権シリーズではドライバー兼車内コメンテーターを務めた。 「1年目はBMWでレースした。車内に3台か4台カメラをつけて、レース中に話しかけられるんだ。すごくウケたよ。当時アメリカでは誰もそんなものを見たことがなかったからね」そこでベルは言葉を切ると思い出し笑いをした。 「だが1度ラグナ・セカで大クラッシュをしたんだ。誰かに追突されてダートに飛び出し、砂煙をもうもうと上げながら回転した。コルベットやらマスタングやらに寄ってたかってぶつけられてドカンさ。車は跡形もなくなってただシートに座った私だけが残ったんだ。ジャスティン(デレックの息子でそのレースにも出走していた)はモーターホームのテレビで全部見ていた。 慌てて飛んできて観客席のフェンスを跳び越え『父さん、大丈夫なの』って叫んだよ」幸いにもベルは「大丈夫」で、その後も数シーズンにわたって元リチャード・ロイドのアウディS4クワトロで参戦を続けた。 デレックは1970年にスティーブ・マックイーン主演の映画『栄光のル・マン』にドライバーとして出演した。その際のベルの逸話はいくつもあるが、私にはどうしても聞かずにいられないものがひとつあった。917でホワイトハウス・コーナーを全開で抜けたベルは、あるものを見つけて仰天した。 1人のカメラマンがコース上で腹ばいになっていたのだ。それはマックイーン本人で、ベルは間一髪でよけられたが身の毛もよだつ瞬間だった。 真夜中にはっと目覚めて「スティーブ・マックイーンをひき殺した男として記憶されていたかもしれないと考えることはないか」と聞くと、デレックはこう答えた。「しょっちゅう彼を思い出させることが起きるんだ。昨日、腕時計のベルトを修理しようと時計屋に行ったら、TAGホイヤーが目に入った。 『ル・マン』をやったときに、スティーブはそれを1個くれたんだ。裏には『デレックへ 成功を祈る スティーブ』と入っていたんだが、それをなくしちまったんだ。でも、店にいる間に彼のことを考え始めた。よく手紙をくれてね。文字が書けるなんて思いもしなかったよ。 昔、私はイギリス南部のボグナー・リージスにカーアクセサリーの店を開いたんだが、ある日1通の手紙を受け取った。それはスティーブからのお祝いの手紙だった。うれしかったよ。本当にいい友人同士で撮影中は家をシェアした。だが、その手紙も捨ててしまったんだ。あの頃はそういうものにたいして意味がないような気がしていた」 「最近は取っておくようになったよ。この間スターリング・モスが手紙をくれたが、もらった手紙はみんな取ってある。あの人は私にとって本物のヒーローなんだ。14歳の頃に写真を送ってもらった封筒まで取ってあるよ。今はもちろんいい友人同士だ。こっちに来たときは、週に2回くらい一緒に食事をする」 「私がここに家を構えたのはスターリングのおかげでもあるんだ。1985年にマイアミグランプリで優勝した(ポルシェ962)。たいへんなレースでラスト10周で3位から勝ち上がったんだ。表彰式を済ませてパドックを抜けて戻る途中だった。日曜の夕暮れ時でほとんどの人はもう帰っていたよ。 スターリングが近寄ってきて『よくやったな。素晴らしい走りだった』と言ってくれた」 『親切にありがとうございます。憧れの人がそう言ってくれるなんて』と言うとこんな答えが返ってきた。『君が私の憧れの人だよ』これには本当に胸を打たれた。家の壁にもらった写真を飾っている。そこに彼はこう書いてくれた。 『スターリングより。もしも…』いつも私にいうんだ。もしも、私が15年早く生まれていたら、スポーツカーで世界一偉大なペアになれたのにと。最高の褒め言葉だよ」 デレックが深く心を打たれるのは無理もない。子どもの頃のヒーロー、その背中を追いかけてモータースポーツの世界に入ったその人と親しい友人になれたのだ。ベルが素晴らしい人物だという理由もそこにある。今も10代の頃に抱いたこのスポーツへの夢と情熱を失わず、人間のことが心から好きなのだ。 誰についてもまったく悪くいうことがない。それに加えて、真の紳士らしく謙虚であり続けている。 その証拠にインタビューを終えるに当たって、ファンである私が四半世紀前に取ったレース中の彼の写真に快くサインしてくれた。本当にありがとう、デレック。
(ヤフーの記事は直ぐに消えることが多いので全文送りました)
【イギリスが生んだ偉大なドライバー デレック・ベルに聞く栄光の日々】


1086. 『マックイーンが作り上げたレース映画の金字塔「栄光のル・マン」』
ここで紹介するのは「ポルシェ908/02(シャシーナンバー022)」。この通称「908スパイダー」は1970年のル・マン24時間レースに、スティーブ・マックイーン主演の「栄光のル・マン(Le Mans)」のカメラカーとして実際に使われた車両だ。 この「ポルシェ908/02」はマックイーン自身も実戦で使用しており、様々な経歴を辿ったのち、現在のオーナーであるアウグスト・ドイッチュ(写真)の手により当時のコンディションに戻されている。 「栄光のル・マン」は公開したその瞬間からモータースポーツファンの心をがっちりと掴んだものの、一般的な大ヒットに至らなかった。長く日の目を見ることのなかったこの作品は、40年の時を経た現、“カルトクラシック”な一作として高い人気を誇っている。 「栄光のル・マン」に関しては2本の長編メイキングドキュメンタリーがあり、当時の制作風景の状況を細部まで伝えてくれている。そこでは尽きることにない情熱を、作品作りに注ぎ続けるマックイーンの姿を見ることができる。 ちなみに、1988年に制作された「フォード・プーマ」のCMには映画「ブリット」に登場するマックイーンのドライブシーンをCGで合成、彼がまるでプーマをドライブしているような映像が演出された。 「栄光のル・マン」のドキュメンタリーには、このCMで見られるようなマックイーンの自動車に対する熱い想いが溢れている。
『今も残る「栄光のル・マン」に登場した名車たち』
映画のために使用されていた車両は、これだけの長期間が経っていることが信じられないほど、美しいコンディションを保っている個体が多い。 例えば、マックイーン演ずるマイケル・ディレイニーが映画の冒頭で美しい風景をバックにゆったりとドライブしていたスレートグレーの「ポルシェ911S」は、新品同様のコンディションで、ドイツのコレクターが所有している。 しかし、ピンク・フロイドのドラマー、ニック・メイソンが所有する「フェラーリ512S(シャシーナンバー1026)」のように外観が変更されている車両もある。ライバル車として映画に登場した512Sは、デレック・ベルのドライブで撮影に参加。 撮影中に火災に見舞われてしまう。その後、生き残ったシャシーをベースに改めてレストアされた。
『3台の撮影用カメラを搭載してル・マン24時間に参戦』
「ポルシェ908/02(シャシーナンバー022)」には、撮影のために3台のアリフレックス製カメラが搭載されており、実際に1970年のル・マン24時間レースにおいて映画用の走行シーンが撮影されている。 当時、ドライバーを務めたジョナサン・ウィリアムズは2014年に亡くなっているが、もうひとりのドライバー、ヘルベルト・リンゲは当時のことを昨日のことのように覚えている。 「この時の908にはカメラを装着するために追加パーツが取り付けられていて、約40kgも重量が増加していました。でも、カメラ機材の搭載によってクルマのバランスが崩れたり、スピードが落ちることはありませんでした。 この事実に対して、いくつものナンセンスな記事を読んだものですよ(笑)」と、リンゲ。 カメラカーとして参加したにも関わらず、「908/02」は24時間を走りきり、9位という順位を得た。ところが、リンゲによると規定違反を指摘されて失格の裁定を下されている。
『マックイーン自身の手で実戦にも登場し勝利!』
「栄光のル・マン」の撮影は5ヵ月にも及んだ。他のレーシングカーも撮影用車両として用意され、アリフレックス製の動画カメラを搭載するために、ルーフが切り取られたり、支柱が取り付けられたりと、少々不格好なモディファイが施されている。 実はこの「シャシーナンバー22」は撮影前にレースデビューを飾っている。カート・アーレンスとロルフ・シュトメレンのドライブで、1969年2月1〜2日に開催された「デイトナ24時間」においてレースキャリアをスタートしていた。 しかし、このレースでは他のポルシェと同様にレース中盤の段階でカムシャフトの破損が原因でリタイア。その後ポルシェのファクトリーにおいて、オープントップ仕様の「908/02」に変更され、マックイーンと彼自身の撮影プロダクションである「ソーラー・プロダクション」に売却。 同年の12月にアリゾナへと送られた。 1970年の2〜3月、マックイーンはこの「ポルシェ908/02」を駆って4戦にエントリー。ふたつのレースで勝利を飾った。デビュー戦となったホルトビル・レーストラックにおいて、マックイーンは勝利を手にしただけでなく、それまでのコースレコードを2秒も縮めて見せた。 これはマックイーンが俳優としてだけでなく、レーサーとしても非常に優れた才能を持っていたことを証明する事実だ。 1970年のセブリング12時間ではマックイーンとピーター・レブソンのコンビで参戦し、2位でフィニッシュ。このレースで優勝したのは、フェラーリ512Sで参戦した、マリオ・アンドレッティ、イグナツィオ・ギュンティ、ニーノ・ヴァッカレラ組だった。 ヒストリックレースのために元の状態にレストア 1970年のル・マン24時間レースで使用された後、「ポルシェ908/02(シャシーナンバー022)」は、1970年代を通して様々なレーシングチームやオーナーの手を渡り、耐久レースで活躍した。その後、レースで大破に近いダメージを負っていたが、ポルシェ908の絶大なファンだったオーストリア人のアウグスト・ドイッチュがエンジンとギヤボックスのない状態で廃車になっていたこのクルマをポルシェ・ザルツブルグから購入する。 彼は当初、この「シャシーナンバー022」を別の「908/02(シャシーナンバー018)」のパーツ取りに使うつもりだったという。ところが、1980年に「シャシーナンバー022」は復活を果たす。しかし、ドイッチュはクルマの正当性に関して、それほど気にするタイプの人物ではなかった。ロッターシュミット製ボディが与えられ、エンジンはポルシェ製水平対抗6気筒ツインターボを搭載。ギヤボックスはポルシェ935のものだった。 ドイッチュの「シャシーナンバー022」は、1980〜1988年までドイツやオーストリアのローカルレースを中心に走り続けた後、10年間という長い眠りに入った。そして、1998年、ヒストリックレースイベントの「AvD オールドタイマー・グランプリ」の設立者であるフーベルトゥス・グラフ・ドンホフが、ドイッチュに「あの伝説の『908/02』をニュルブルクリンクで走らせないか?」と提案した。彼はドイッチュにひとつの条件を提示する。 「オリジナルの状態にレストアしてほしい」と。そして2年後の2000年5月、ドイッチュ自身の手で「ポルシェ908/02(シャシーナンバー022)」がヒストリック・ヨーロピアン・スポーツプロトタイプレースのグリッドに並ぶことになった。 レストアが完了した車両には、映画に登場した輝かしいキャリアがしっかりと示されていた。ドイッチュの名前の下には誇らしげに「スティーブ・マックイーン」の名前が入れられているのだ。そして、その美しい姿は今も様々なイベントで見ることができる。
【「栄光のル・マン」の撮影車「ポルシェ908/02」の数奇なヒストリー】





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